EP.4【温もりは】
思い出は、色褪せない。
それを良い意味として取るのは、あまりに浅はかな考えだろう。
嫌な記憶も、例外ではない。
顔、声、感触、痛さ、苦しさ、悲しみ。
もう二度と思い出したくない筈なのに、いつか脳裏を過ってしまう。
私なら、もちろん消す事だって出来た。
でも、それでは駄目なんだ。
暗い記憶を失くしてしまったら、微かな光も褪せてしまうから。
・
「………」
風化した石レンガの隙間から、光が差して埃が可視化している。
キーが沈浮を繰り返す度、乾いた入力音が規則的に響いた。
「……フゥ」
カッコつけた将棋士のように弾いたエンターキーが、王手を告げる。
緑の光が点滅する棒付きキャンディは、甘く砂時計の代わりを担う。
『ロヴェ』
「ん、どうしたング?」
苦いプラスチック棒が液体に溶ける時、背中から聞こえた声に椅子を回す。
太陽光が右腕に当たり、左腕から透き通るような不透明な肌。
体を向けた私に近付く彼女は、何処か不安気で可愛らしい。
『研究の方は、一段落着いたのですか?』
「いや、今しがた終わったところだよ」
『!』
『それなら……』
「?」
安堵する表情は、子を心配していた親のよう。
飽くまで、そう見えるというだけだが。
『……その、そろそろ休憩を取られた方が良いのではないでしょうか』
「あぁ………なるほど」
皮膚の内から淡く示された日付が、最後に見た時より3つ程多い。
「心配しなくて良いよ、私は一週間位なら支障をきたさない体だ」
「3日寝ないなんてざらさ」
『………しかし』
一度始めた事は、終わるまで止めることが出来ない。
区切って進めたり時間を置いて進めると、どうにも品質が片寄る。
そんな厄介な性格故に、彼女を心配させてしまうとは予想外だ。
『睡眠は定期的に取るべきです』
「…………そうだね」スッ
『あっ……//』
伸ばした手が彼女の髪を梳かすと、ほのかに染まる頬が心地よさげだ。
君を瞳に映さない時間は、実に心苦しい。
「君の言う通り、眠ることにするよ」ニコリ
『はい……//』
だけどもその微笑みを見たいが為、私は君の慈悲を受け入れる。
「その代わりと言ってはなんだが……」
『?』
「ング、私の為に子守唄を歌ってはくれないか?」
『子守唄……ですか?』
「あぁ」
『わ、分かりました//』
ねだる子にやれやれと呆れながら、その平穏に母は微笑むのだろう。
勿論、私の予想に過ぎないが。
『……すぅ』
胸に手を当て酸素すらも愛おしむようにゆっくりと、息を吸う。
私は深く腰掛け、始まりの零コンマを今か今かと待ちわびていた。
随分と、久方ぶりだったから。
『…………~♪』
「……」
紡がれる旋律を鼓膜に感じると、瞼を閉じて聴覚を研ぎ澄ます。
『~♪』
『♪~♪~~』
「…………」
歌詞はない。
曲は既存の物でもない。
今彼女が感じたままに、感情という言葉でメロディを刻んでいるだけ。
同じ楽譜は、二度と出来ないだろう。
『~~♪』
『~~♪~♪………』
嗚呼、安らぐ。
こんなにも彩られた二酸化炭素が、一体何処に存在しうるのか。
「………………」ウトウト
やがて、粘りのある液体に沈む鉛のように。
クリックがないダイヤル式の電源スイッチで、静かに部屋の意識を落とす。
「…………」
『♪~……____』
深く深く、肉塊は沈む。
__
____
______
_________
『*#%~;?>__!!!』
「……」
『%#※*/__!!』
品の無い罵声と拳が唸る。
体も心も痛く、苦しい。
「…………」
『"※?%#@…!!』
毎日毎日、鼻と口から血を流し。
ろくに食事すら獲れず、何とか口内へ入れたパンは鉄の味がした。
それでも、体はなまじ存命にすがるものだから、地獄が終わらない。
「………………」
産まれる場所を、間違えた。
今にして思えばそれは、大きな間違いだったと頷ける。
『……ェ』
『…………ロヴェ』
無限を呑む闇に、小さな光が一つ。
『私ね、ロヴェの笑った顔が好き……』
『だって、そのギザギザしたカッコいい歯が沢山見れるから……!//』
99%に現れた1%の輝きに、心が100%君に満たされる。
『ねぇ………ロヴェ………………』
弱々しく差し伸べられた白い手を、壊さないよう包み込む。
温かくて、華奢だ。
『今度は私、貴女と一緒に%?#@※____』
「………」
粘り気ある液体から浮游していく鉛のように。
その手に温もりを残したまま。
太陽に向かって、戻りゆく。
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「……んっ」パチッ
「………………夢、か」
眠りから覚醒した時に生じる憂鬱感、それを感じるのはいつぶりか。
うっすらと卵黄色に移り変わる空を、黒鳥が歪に泣いている。
知らない場所へ来たように、眼球は辺りをしろじろと見渡した。
「__ッ!」
「…………ング」
『……』
過去から引き釣り出されたにも関わらず、その手に残る確かな体温。
隣で発する彼女の吐息が、その正体。
「ずっと……君は……………」
『………』
夢をさ迷う間、夕に沈む今の今まで彼女は私の側に居て。
私が孤独に泣かないよう、ずっとずっと手を握ってくれていた。
心配しなくても良いと。
絶対に離れないから、安心して欲しいと。
「……フッ」
変わらない、寝顔。
よく似た、寝顔。
華奢で不透明な手を握り返すと安心を確認したのか、ふんわりと微笑んだ。
「ありがとう……ング」
額にそっと、口付けをする。
手の甲に感じる君の温もりは。
あの時と、同じだった。
完